均衡 。

 2つ、またはそれ以上の物事の間に、力や重さのつりあいが取れていること。

昔から、均衡の保たれたもの、つまり、バランスの良いものが好きだった。
バランスの良いもの=中間のもの という意味ではない。
中間よりも少し足りないこともある。
中間よりも行き過ぎていることもある。
限りなく中間に近いこともある。

生き物には、各々のバランスが存在する。
熱帯に咲く花が雪の積もる土地に根付かないように、生きていくには自己のバランスを取ること、ひいては自我を保つことが不可欠である。

しかしながら、この世界に生きているのは自分ひとりではない。
「明日は晴れると良いな」と思っても、それは自分の都合であり、自然も社会も時間も己に合わせて動いてくれるわけはないのである。
かといって、すべての人が「明日は晴れると良いな」と同時に思うような極端な世界も、自分にとっては居心地が良いバランスではない。
多くの生き物が暮らしているからこそ生まれる多様性や多面性は、絶妙なバランスを構成するために必要であると感じている。

そんな中で日々を過ごしているからこそ、見失いそうになる。
あるいは、意識しないうちにすでに失っているのかもしれない。
自分が保つべき本来のバランスを。
多種多様な事象をコントロールすることなど不可能だと理解していながらも、自分にとって心地の良いバランスの中だけで暮らしたいという身勝手な希望も捨てきれないのである。

だからこそ、表現するしかないと感じる。
表現、というより、確認なのかもしれない。
どんな世界でも、自分を見失わないように。

この確認には、あらゆる手段が考えられる。

表現の方法は決してひとつではない。
これまでに音楽、建築、映画という手段を取ってみた。
音楽では微分音を使い短三度と長三度の音の狭間に、建築では新築の廃墟を生み出すという矛盾に、映画では現実と非現実・悲劇と喜劇の曖昧さに、自らの欲する均衡を表現した。
しかし、いずれも自分にとって「バランスの良い表現方法」とは言えなかった。
その理由は、時間がかかり過ぎるところにある。
厳密に言えば、時間がかかること自体が嫌なのではなく、左脳が働く余地を自分に与えてしまうのが嫌なのだ。

深夜になると近所迷惑になるから楽器が弾けない、この構造の建物では建築基準法にひっかかかる、俳優の予定が合わなくて撮影はこの日になる・・・
「じゃあこうしよう」とか、「これは諦めよう」とか、代替案を出したり折り合いをつけたりしているうちに、計算や他の意志によって本心はどんどん歪んでいってしまう。
そうして出来上がったものは果たして自分が純粋に求めていたものなのだろうかと、自分が創ったものなのに疑問を抱くようになってしまった。

写真はその点に於いて非常に優れている。
シャッターを切った瞬間に絵が完成する。
つまり「速い」のである。
それはもう、左脳の計算が間に合わない程に。
写真の表現方法や技術、機材や媒体まで含めれば写真=速いという単純なことでもないが、時間があれば理屈で考えすぎてしまう自分にとっては可能性を秘めた表現方法だと感じた。
右脳に直結し、より感覚的、感情的、本能的なアウトプットを実現できるのではないか。

もちろん、「写真なら簡単に表現できる」というわけではない。
経験を重ねるごとに自然と身についてしまう技術を使った写真が直感的と呼べるのか?
デジタル現像やデジタル加工をした写真は現場の空気が完全に死んでしまうのか?
外的要因を完全に断つことなどできるのか?
疑問や思考は、ゼロにはならない。

しかし、一見「試行錯誤」という論理的な過程を踏むことで自分が求める表現が遠のくようでありながらも、
「バランスを取るためにバランスを取る」という追求が、自分にとってはむしろ必要なのではないかとも感じている。
数ある表現方法の中から現状「写真」という手段選んだのは、こういった理由からだ。

では、何を撮るのか。

あまりに多くの事象が複雑に絡み合い、なにか「固定」するものがなければ表現に至らないと感じた。
試行回数に埋もれる前、固定概念に染まる前、つまり写真を始めて間もない時にその考えは既にあったと記憶している。

彼岸花を初めて撮ったのは、偶然に近いようなタイミングだった。
ただ、この花だけを撮ると決めたのは、多くの花の中でもとりわけ強いその多面性が理由なのかもしれない。

美しくもあり、不気味でもある。
抽象的なようで、具体的でもある。
極楽浄土のようで、地獄の風景でもある。
カラフルなようで、モノクロでもある。

憧憬、嫌悪、秩序、混沌、快楽、嫌悪、静穏、激情、成長、停滞・・・
自己の中にある、時に矛盾すらしかねないありとあらゆる想いに、その多面性は似ている気がする。

なぜこの花を撮るのかということに未だに答えは出ないし、来年のこの季節に一体どんな気持ちでこの花を撮っているのか(あるいは撮っていないのか)自分自身想像もつかないが、本来飽き性であるはずの自分が10年以上も興味を失わない程に多面性のある「彼岸花」という花について、今しばらく記録をしていこうと思っている。

その記録の中に、自分の求める表現を実現していきたい。

撮影者について

松本夕生 Matsumoto Yusei [Twitter]